My Funny Footnote

映画のことをノートしていきます。

マリア・シュペート監督『バッハマン先生の教室』(2021)

ドイツ映画祭 HORIZONTE 2023で、マリア・シュペート監督『バッハマン先生の教室』を見ることができた。東京にいる日程的にこれしか見られないのが残念。

 

www.goethe.de

 

ドイツ映画祭のテーマは〈道を開く女たち〉というだが、『バッハマン先生の教室』のテーマ自体は、直接これに関わるわけではない。この映画祭のなかでは、女性の監督が撮った優れた映画という位置づけになるだろうか。

とくに女性という連想というわけでもないが、映画を見ていて同じドキュメンタリー映画監督の小森はるかの『空に聞く』を思い出した。

映画としてとくにトリッキーな仕掛けを講じるわけではない。「攻めた」テーマ設定や、タブーに過激に踏み込むということもない。移民出身の子どもたちが集まる学校としては、むしろ穏当と言ってもいいかもしれない。同テーマの『バベルの学校』のように、個人にはどうしようもない問題を突きつけるようなことはない。

ただ、おそらく作品となった映画の何十倍、何百倍の時間の映像を撮って、途方も無い時間を積み重ね編集しただろうことが分かる、真摯さ、情愛の細やかさ、粘り強さ、そして苦労を観客に押し付けようとしない軽やかさ。そこがよく似ているような気がした。

定年を迎えるバッハマン先生。最後のシーンに向けて、すべての映像が深い愛情と熟慮をもってそこに配置されている。そんな気がする。

社会問題を提示し、見るものにジレンマを突きつけるような映画ではない。むしろそうした問題を土台として、教育において避けがたい権力関係、つまり教える/教わる関係、評価する/評価される関係のなかで、教師と生徒がどのように心を通わせるのか、それがやはりどれほど素晴らしいことかをしみじみと感じさせる。


話を聞くということ。子どもに対して、一人の人間として扱いながら聞くということ。例えば成績の結果を面と向かって、その理由とともに話すということ。対話するということ。これは日本の学校現場では考えにくい行為だろう。

 

まあしかしバッハマン先生は変わり者ではあるだろうな。昔ハードロッカーだったんだろうな。誰かがどこかで引き受けている重荷。バッハマン先生はそれを引き受けて、世界が捨てたものではないかもしれない、とかろうじて思わせてくれる存在かもしれない。すくなくとも映画はそう主張している。