キム・セイン監督『同じ下着を着るふたりの女』(2021)
一人称視点か、あるいは異常に接近した三人称の視点で、「女性」の領域に入っていく。
こういうタイプの映画はここ10年ほど良作が非常に多いように思う。思いつくままに、キム・ボラの『はちどり』、ロアン・フォンイー『アメリカから来た少女』、ヘンリカ・クール『ベルリン、60分の恋人』、カンテミール・バラーゴフ『戦争と女の顔』。クリスティアン・ムンジウ『4ヶ月、3週と2日』とか、アマンダ・ケンネル『サーミの血』とかもこの流れに位置付けられるように思う。多くの映画作家を刺激しているし、時代の要請でもあるし、企画が通りやすいというのもあるかもしれない。
キム・セイン監督『同じ下着を着るふたりの女』も、そんな映画の一つとして見た。
母スギョン、娘イジョン。母は娘に人生を奪われたと感じ、娘は母に人生をねじ曲げられたと感じている。母は娘無しの自由な人生を夢見て、娘は母に受け入れられることを求めている。すでに崩れてしまっていた親子関係が、ある車の事故をきっかけに、さらに大きく動き始める。
印象としては、個々の小さな出来事がめっぽう面白く、雄弁な場面を構成する力がある監督だなと感じた。
冒頭の場面。娘が洗面台で下着を洗う横のトイレで排尿する母。その下着を無造作に娘に渡す母。その後、娘の下着についた経血。この最初の場面が多くのことを語っている。この母は、娘を一人の存在として見ていないこと、二人の軋轢が「月経」という表に出てこない、避け難く、生々しい女の関係であること。
新しい恋人の連れ子(中学生)の部屋に入って、性具を見つけてしまうくだり。娘は使用済みコンドームを母のベットに置き、母は娘がトイレに捨てたタバコの吸い殻をベットに置く対称性。
停電のときに、イジョンを呼んで携帯の光で照らさせて、ひとりシャワーを浴びるスギョン。彼女はイジョンを人とすら思っていない。便利な道具として扱う。しかしそうであるがゆえに、観客はスギョンの、決して美しいとは言えないシャワーを浴びる姿を見つめることになる。この皮肉な二重性はとくに素晴らしい。
とはいえ、全体の展開、物語の収め方にぎこちなさがある。この二人は解放されたのか。母はハンガリー舞曲をひどく稚拙に吹く、娘は下着を買う。これは解放なのだろうか。映画の終盤で挿入される過去のシーンも唐突で、物語を畳むための言い訳じみて感じる。
また、二人が真に向き合って会話したとき、イジョンが心をさらけだしたとき、スギョンは「おっぱいをあげようか」とごまかした。そのあとの沈黙が、会話の終わりこそが大事なのではないか?そこが編集で即座に切られている。この映画が持っているリアルな時間を損なっている。「愛してる?」という娘の直接的な言葉に対しての母の沈黙を、編集で切ってしまうのに対しても、同じ印象を受ける。
それにしても、親子であるがゆえに、家族であるがゆえに、人はどうしても執着してしまう、という物語が量産されているのはなぜなのか。人と人が執着し合う最後の領域であるかのように、親と子の切っても切れない関係というものが繰り返し物語にされ続けている。
だからだめというわけではないが、説明不要の前提とするタイプの映画は苦手だ。そのせいでカサヴェテスの『グロリア』ですら好きじゃないのだ。