My Funny Footnote

映画のことをノートしていきます。

アレクサンドル・ソクーロフ監督『独裁者たちのとき』(2022)

ソクーロフの『独裁者たちのとき』を見た。

 

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見方によっては、悪ふざけにしか見えないかもしれない。ある面ではまさにそうだ。独裁者への諧謔的な悪意、嗜虐的精神がなければ、こんなこと思いつきはしないだろう。

しかしこの怪作は、誰がなんと言おうと天才的だ。

 

冒頭でソクーロフは、AIもディープフェイクも使っていないと宣言する。これは、独裁者たちの興じる会話が、でっちあげられたものではないということだろう。
それにしても、精巧なアンドロイド的気持ち悪さで動き続ける彼らのくちびる…。
とにかくこの宣言があらわにしているのは、むしろこの映画がAIやディープフェイクの時代のものに他ならないということだ。より厳密に言えば、AIやディープフェイクなどの技術によって、アーカイブの資料が勝手に動き始めてしまう時代の映画だということだ。
アーカイブの資料は、生きていたものの残骸として、モノクロのデータとして、ベンヤミン風にいうなら「灰」として保管されているものだった。それが生を失ったまま動き始める。歴史のこだま、エコー、反響が、自律性を獲得して煉獄でうごめき始める。
そのための技術的前提が急速に整ってきている。ソクーロフはそうした状況を、炭鉱のカナリアの感性で嗅ぎ当て、この怪作をものにしてしまった。
この天才的だというのは、この「早すぎる」時間性である。このヒトラーチャーチルの唇が動くグロテスクな滑稽さは、この時代錯誤感にもあるはずだ。この滑稽さがぎこちなさゆえのものなのか、将来当然のようにも実現されている状態がすでにデフォルメされているから滑稽なのか。いずれにせよこの怪作は、どこまでも新しい。今までに存在しえなかったという点でも。そしておそらくこれから類似の映像が氾濫するであろうという意味でも。
アーカイブ空間で動き始めるものたちは、映画館ではなく、インターネットの海で溢れるのかもしれない。この映画は、まさに海の怒涛として示された群衆に対する独裁者たちのように、有象無象のアーカイブフェイク動画の海を眺めることになるかもしれない。偽りの天国を待ちながら。
 
ソクーロフにせよ、ロズニツァにせよ、ウクライナやロシアのアウトサイダーが、アーカイブに対する奇怪な想像力を増殖させている。日本はどうだろう。公文書を偽造改竄削除黒塗りする国で、奇怪な想像力が生まれてきてほしい。それはロズニツァやソクーロフと同じように、逆説的に人類の希望となるだろう(日本の希望ではなく)。
ソクーロフは、すでに来るべき時代の脅威に対して、それを先駆けて戯画化するという行為をやってのけた。ビッグデータの空間に生きる人格が単数である必要がないこと(複数のチャーチル)、筆舌に尽くし難いほどの時代遅れ感(チャーチルによる女王への電話!)、彼らがもたらした厄災に比してやりきれないほどの滑稽さ。我々の未来がもつことになる歴史空間を予言する序曲でもあり、我々がそこで滅びないための早すぎるレッスンでもあるようだ。