コゴナダ監督『アフター・ヤン』(2021)
公開された時に見ようかと思って悩んだ挙句、結局見なかった『アフター・ヤン』を見た。
というかコゴナダ監督は、『コロンバス』を撮った人だったのか。気づかなかった。
世界の片隅の、日陰の、親密な空間を思わせる淡色と薄明の世界観は、コゴナダに独特のものだ。その洗練ぶりは、テレンス・マリックの『ソング・トゥ・ソング』のような色彩感と寂寥感がある。あの映画、好きな人は少ないような気もするけど、私はなぜか好きだ。
『アフター・ヤン』の場合、この薄明の世界観は、人工的かつ有機的な、ありていにいえばMUJI的な生活空間が近未来の日常として構成される。これはリアルな近未来の生活空間として説得力があってよかった。
コゴナダはユニークなホームページを持っていて、小津やブレッソン、ウェス・アンダーソンの様式を考察するショートムーヴィーを公開している。
よく見ると、ここにテレンス・マリックのバージョンもある。予感は間違っていなかった。
映画をエステティックに見る人なんだな。結構共感する。
オープニングが秀逸だ。家族がダンスをそれぞれの自宅で行い、その完成度を競い合うリアルタイムのウェブ・コンテクストみたいな感じ。
ここでは家族が、何かチームとして構成されている感じがある。そして主人公たちの家族は白人、黒人の夫婦に中国人の養子、中国系のAIロボットで構成されている。血や法でつながっているというより、意志と温もりでつながっている感じの未来的な家族。この周到な配置。
そしてさまざまな家族がカラフルな背景とともに映されていく。多様だが、どこか規則性を感じさせる。
このダンスのときにAIロボットのヤンが故障して、物語はスタートする。この展開もエレガントな導入だ。
いろいろあって故障したヤンの記憶が見られるようになり、それを未来のメガネ的な機会で覗いてみると、彼の視線がそのまま美しいホームムーヴィーになっている。
ここにはメディア論的観点があるように思える。ロボットの視野、映画の画面が、家族のかけがえのない記憶に成り変わる。音楽がつけられ、編集されたクリアな画面。これが私たちの記憶のあり方になっていくのかもしれない。
最初の写真撮影の場面。彼ら彼女らは、ヤンに「見られて」いた。
しかし故障したヤンの記憶を覗き、彼の視線を獲得することで、「見る」側の主体性を取り戻す。それは彼ら彼女らが、ヤンという存在を、そのAIロボットという商品ではなく、愛や記憶を持つ一つの存在として認めるプロセスになっていく。
この過程が美しく、物悲しい。人間の有限性が、物悲しいのと同じように。
ところでリリイシュシュのグライドが登場する(!)。
なんかアレンジがちょっと違うぞ…と思ってたら、MITSKIが歌ってるのか。素晴らしい。メロディーになりたい、全体の一部になりたい、という歌が、ヤンの数代にわたる生、そして世界に対する人間の生そのものの歌になる。