My Funny Footnote

映画のことをノートしていきます。

トッド・フィールド監督『TAR/ター』 (2023)

話題の『TAR/ター』を見た。

gaga.ne.jp

 

監督のトッド・フィールドという人は知らなかった。他の作品も見てみたい。

主人公のリュディア・ターは、ベルリンフィル初の女性指揮者にして、作曲家として世界中で評価され、キャリアに非の打ちどころがない。女性指揮者の活躍の場を増やすことにも尽力し、ロールモデルとしてもまばゆい光を放っている。レズビアンであることを隠さず、パートナー(ニーナ・ホス)との間に里親として引き取った娘もあり、かつ恋愛的にも現役であるみたいで、多くの女性を虜にしている。

しかし、クリスタという若手女性指揮者の自殺をきっかけに歯車が狂い始める。このあたりの展開は、ほとんどサイコスリラーとして古典的という感じだ。

絶大な権力を持っている彼女の不遜で強権的な態度があらわになる。彼女の心に不安が巣食う。それがマエストロを襲う「ノイズ」(チャイム、メトロノーム)として現れてくる。クリスタという女性が「顔のない」存在であり、それが迫害妄想的な不安の表現となっている。中庭に入り、地下室に迷い込む。これは強烈な光を浴び続けてきた彼女が抑圧してきた闇の世界だ。これが本当に不気味な場合と、単に思い過ごしの場合と、その塩梅も良い。

娘をいじめた子供への脅迫。助手で若手指揮者のフランチェスカに対する振る舞い。チェリストを抜擢する時のいきさつ。副指揮者の切り方。どれも単なる悪ではない。それでもボタンの掛け違いのように不和が積み重なり、階段を転げ落ちるように彼女の人生が崩れていく。

 

この映画はテーマ設定やさまざまな映画に対するオマージュなどによって多彩な意匠をこらしつつも、結局のところ王道のサイコスリラーに帰着する。だからこそ160分くらい飽きることなく楽しめたという部分はある。が、いろいろと考えていくうちに、うーーーんと魅力が減じていくところがある。

 

まず、本質的に音楽への洞察を含んでいないように思える。いくらケイト・ブランシェットが指揮者のジェスチャーやピアノをトレーニングして演技に臨んだのだとしても、そしてそれが賞賛すべき努力だったのだとしても(実際、当代最高の女優の一人としての凄みはある)、やはりある種の深みに欠けている。

エンディングに流れるデジタル音楽が結局この映画の音楽なのであって、クラシック音楽との絡み合いはあまり巧みではない。レナード・バーンスタインの言葉もいかにも浅いし、指揮者仲間たちの会話も、対象が「高尚」なだけでいかにも浅瀬でパシャパシャやってるスノッブな印象が強い(ただしこれはこれでリアルなのかもしれない)。

クラシック音楽のシーンは、全体として模倣がうまくいっているかどうかの場面でしかなく、結局粗が目立ってしまう。というか、お手本があり、それをトレースするという構造になっている以上、ほとんどの人間が正解を知らないのだから、いつもどこかで「本当にこんな感じなのかな」という疑念の中で眺めているしかない。なんかケイト様がパワフルな感じで超カッコイイ感じだけど、実際本当にこんな感じなの?みたいな風に。それが映画の弱みになっているように思う。

そもそもリュディア・ターが民族音楽を学んだというのも生かされているだろうか。ターは結局、昔ながらの強権的なマエストロだったことが明らかになるのであって、ベルリンフィル初の女性指揮者というフィクションの設定、民俗学を学びそれを冒頭で流す設定は、とくに新しいものをもたらす合図ではなかったようだ。

この作品が、ウィーラセタクンやアケルマン、あと当然ながらヴィスコンティへのオマージュがあると言われており、それもこの映画が見る人を熱狂的に惹きつける要因になっていると思うが、ターの設定と同じで、表面的な意匠としてなんだか魅力を放っているけど、結局のところあまり中身がないように思える。この映画にウィーラセタクンやアケルマンへのリスペクトはあるのか。別に無くってもいいんだけど。


 あと、ケイト・ブランシェットはさすがの仕事をしていると誰もが思うだろうが、これを褒めてしまっては彼女にとってはイージーなのではないか。むしろ、ドイツ語がそこまで完璧じゃなかったり、ジョギングの時のフォームが微妙にこなれていない感じがするのを見て、何だか完璧すぎなくてホッとした。