My Funny Footnote

映画のことをノートしていきます。

オリヴィエ・アサヤス監督『イルマ・ヴェップ』(1996)

filmarks.com

 

「映画についての映画」が好きだ。

「映画がうまくいかないことについての映画」は、ほとんどもう無条件に好きだ。

フェリーニの『8 1/2』はもちろん。ウカマウ集団の『鳥の歌』も。『テリー・ギリアムドン・キホーテ』も。(なんか変な例しか出てこない)

 

そして『イルマ・ヴェップ』は、この「映画がうまくいかないことについての映画」のど真ん中だ。なのでほとんどもう無条件に好きだ。

実在のサイレント映画の『レ・ヴァンピール 吸血ギャング団』(ルイ・フイヤード監督)をリメイクする映画の撮影がうまくいかない。

撮影現場の活気ある動きと、サイレント映画の動きがあからさまなほど対照的だ。前者は、さまざまな人が行き交うなかを、クローズアップの視点が大胆に移動する。後者は、ジェスチャー中心の誇張された動き。その中間を、イルマ・ヴェップを模倣するマギー・チャンがしなやかに歩む。(しかし、もっともイルマ・ヴェップっぽい動きをするのがスタントマンというのも、アイロニカルで良い)

ちなみに、途中のパーティで出てくる活動家の「シネマ・ミリタン、政治映画」の映像も、抜群の切れ味で挿入される。「映画は魔法ではない。科学から生まれ、ある意志に奉仕する技術である。それは解放を求める労働者の意志である」

 

マギー・チャンの魅力は言わずもがな。二つ、ゾクゾクするシーンがある。

序盤で彼女が例のタイトなゴムの衣装を試しているとき、衣装係ともう一人のスタッフが話す背後で、すっと猫が座るようなポーズをとる。彼女がイルマ・ヴェップにすっと入り込む瞬間。もう一つ、深夜に彼女を呼び足した監督が騒ぎを起こして、彼女が「窓から出た方が早いわ!」といって窓と柵を飛び越えて往来へ出てタクシーへ乗る。そのしなやかな動き。その直後、イルマ・ヴェップの夜が始まる…。

仕事を投げ出したかに見えた監督が残した最後の「映画」。あれはなんなのだろう? 

完成した映画ということなのか。それともずだずだに映画を破壊した残骸ということなのか。いずれにせよ、信じられない衝撃力をもった映像。サイレント映画でも、現場のリアリズムでもなく。

作中、いろんな映画に対するアイロニーが散りばめられていた。バットマンを貶し、アメリカ映画をフランス的芸術映画と対比する。その「芸術映画」の監督にコーラを片手に深そうで浅いことを言わせ、落ち目の別の芸術監督にマギー・チャンを貶めさせて全観客の憎悪を掻き立てる。監督の妻にくだらないスティーブン・セガール映画と言わせ、しかもイルマ・ヴェップの格好で泥棒の真似事をするマギーが背後にいる!

そうしたアイロニーをぶった斬るまったく新しい次元の映像。小田香の感じすらする。

物語としてどんな整合性があるのか分からないが、映像と音の強度だけで落とし前をつけてしまった。

 

話題のドラマは第2話まで来た。2話目はひくほど面白くなかった…。