My Funny Footnote

映画のことをノートしていきます。

チウ・ション監督『郊外の鳥たち』(2023)

 

イメージフォーラムで『郊外の鳥たち』を見た。

www.reallylikefilms.com

 

監督のチウ・ションは、中国映画の第8世代に属するらしい。

胡波(フー・ボー)、畢贛(ビー・ガン)、顧曉剛(グー・シャオガン)を見てきたが、不思議なことに、いつもそこにはタル・ベーラの影があったように思う。とりわけに、背後にある途方も無い巨大な世界、終末を迎えようとする世界をただ黙って捉えようとする、あの「長回し」。

チウ・ションの映画にはそれが希薄だった。彼の映画の「目」は、冒頭の土地測量のためのレンズ越しの視界が示すように、せわしない観察の目であり、何かを発見しようとするズーム・アップのようだ。(しかしあからさまにホン・サンスすぎる)

とはいえ、バランスを欠くほどに芸術性を完遂してしまう度量の大きさは、ビー・ガンと共通する香りを感じる。それは中国の文化的爛熟なのか、政治的不自由の結果なのか、そのあたりはなんとも言えないが。

ビー・ガンは『ロングデイズ・ジャーニー』でパウル・ツェランの「罌粟と記憶」を念頭に置いていたらしい。チウ・ションの場合はカフカの『城』。しかも「土地の測量」という点を共通させるあたりに、文学的水準の高さを感じる。

ヨーロッパの周縁で(偶然にもともにドイツ語で)、のちに歴史を変える言葉を投壜した者たちを、独特に受け取って作品化する中国の映画作家たち。

 

カフカの城の主人公は、測量士K。客観的な尺度で世界を測量しようとするKは、城の街という根本から合理性の通用しない世界では、測量すら始められないまま続きが途絶えてしまう。

この映画の主人公は、実際に土地を測量する。しかし地盤そのものが沈下している。寄ってたつべき世界が歪み、沈んでいく。冒頭で、彼らが測量しているとき、すでに世界は歪み、夢と現実が混じり合っているのでは無いか。彼らが発見する鉄塔に登る子どもは、すでに夢の世界から現れていたのではないか。レンズはより詳細な観察を可能にするのではなく、過去や未来、亡霊や夢を見せてしまう。

 

そういえば、重要な秘密のように登場するクイズが出てくる。あの答えはなんだろう? 明らかにされないのだから解く必要もないかもしれない。

でも思いついたから書いておこう。水!WATER! 四文字だっていうなら中国語のピン音でSHUI!(一緒に見た妻は、TIMEだと主張している。彼女が正しいかも…)

 

この映画にはタイトルが二度現れる。一度目は「郊外の鳥たち」の長いバージョン、二度目が短いバージョン。あるいはエンディング。そういうことだろうか。似たようなやり方は、ビー・ガンの『ロングデイズ・ジャーニー』にもあった(こっちの方が鮮やかで強烈だと思うが)。

 

子どもの世界と大人の世界。過去と現在と未来、夢と現実。これが入り混じり、浸透し合い、作用し合う。お互いがお互いを反映する。

この辺りのやり方は、ホドロフスキーと似て、あえてやろうとしてやっているようなワザとらしさを感じて、心を深く動かされたわけではないが、監督のインタビューを読んだり、いろいろ反芻したりしているうちに、じわじわと良い映画だったのでは…と思えてきた。

新しい作品もどんどん日本で公開してほしい。