My Funny Footnote

映画のことをノートしていきます。

アリ・アッバシ監督『ボーダー 二つの世界』(2018)

U-Nextでアリ・アッバシ監督『ボーダー 二つの世界』を見た。

border-movie.jp

 

新作の『聖地には蜘蛛が巣を張る』を見て興味を持った。監督はもともとイラン出身でスウェーデンに移り住んだらしい。新作がイランの現実に向き合ったものであるのに対して、ボーダーはスウェーデンの映画っぽいというか、ヨアヒム・トリアーの『テルマ』でも感じたあの感じ、対象を人間ではなく何かの物体としてじとっと観察しているような視点、本質的に上からの目線、みたいなものを感じた。

これはヨーロッパの端に位置する小国の高水準の映画に見られる気がする。リューベン・オストルンドや、ヨルゴス・ランティモスにも近いものを感じる。

 

国境に立って荷物検査に従事する主人公のティナは、さまざまな比喩的な境界に、というかその外側に立つ人物である。

つまり美と醜では醜の側、人間と怪物では怪物の側、抑圧者と非抑圧者では非抑圧者の側…。そのほかにもスウェーデンフィンランド、同居人の飼い犬の檻など、さまざまな境界が映画内で敷かれている。

彼女が裸足で森に入る時、また昆虫などを食べる時、その境界が融解するようだ。そして何より彼女の身体が、男と女の身体性の境界を撹乱する。そのあたりが、現代的な意味を有しているという理解もできるかもしれない。ポストヒューマン時代の人間の責任概念やニュー・マテリアリズム(新しい唯物論)の課題を示すという論文もあるようだ。

でもこの映画は、現実的には彼女を醜く迫害される存在とするために人間に特殊メイクをほどこして、獣のような野蛮な振る舞いをさせるということを行なっている。

アッバシ自身も、自覚的に醜を描くと宣言しているようだ。これは美男美女が画面を彩る映画産業に対する問題意識のためということも言えるかもしれないが、美しさとは対照的な醜を持ってくるというのでは、むしろ醜の存在がやはり人間ではないと再確認しているようなところが否めない。

またスウェーデン優生学を推し進めた過去なんかも思い出して、スウェーデンという地で醜のモンスターにフォーカスを当てることの居心地の悪さを脱しきれていないように感じた。

 

アレクサンドル・ソクーロフ監督『独裁者たちのとき』(2022)

ソクーロフの『独裁者たちのとき』を見た。

 

www.pan-dora.co.jp

 

見方によっては、悪ふざけにしか見えないかもしれない。ある面ではまさにそうだ。独裁者への諧謔的な悪意、嗜虐的精神がなければ、こんなこと思いつきはしないだろう。

しかしこの怪作は、誰がなんと言おうと天才的だ。

 

冒頭でソクーロフは、AIもディープフェイクも使っていないと宣言する。これは、独裁者たちの興じる会話が、でっちあげられたものではないということだろう。
それにしても、精巧なアンドロイド的気持ち悪さで動き続ける彼らのくちびる…。
とにかくこの宣言があらわにしているのは、むしろこの映画がAIやディープフェイクの時代のものに他ならないということだ。より厳密に言えば、AIやディープフェイクなどの技術によって、アーカイブの資料が勝手に動き始めてしまう時代の映画だということだ。
アーカイブの資料は、生きていたものの残骸として、モノクロのデータとして、ベンヤミン風にいうなら「灰」として保管されているものだった。それが生を失ったまま動き始める。歴史のこだま、エコー、反響が、自律性を獲得して煉獄でうごめき始める。
そのための技術的前提が急速に整ってきている。ソクーロフはそうした状況を、炭鉱のカナリアの感性で嗅ぎ当て、この怪作をものにしてしまった。
この天才的だというのは、この「早すぎる」時間性である。このヒトラーチャーチルの唇が動くグロテスクな滑稽さは、この時代錯誤感にもあるはずだ。この滑稽さがぎこちなさゆえのものなのか、将来当然のようにも実現されている状態がすでにデフォルメされているから滑稽なのか。いずれにせよこの怪作は、どこまでも新しい。今までに存在しえなかったという点でも。そしておそらくこれから類似の映像が氾濫するであろうという意味でも。
アーカイブ空間で動き始めるものたちは、映画館ではなく、インターネットの海で溢れるのかもしれない。この映画は、まさに海の怒涛として示された群衆に対する独裁者たちのように、有象無象のアーカイブフェイク動画の海を眺めることになるかもしれない。偽りの天国を待ちながら。
 
ソクーロフにせよ、ロズニツァにせよ、ウクライナやロシアのアウトサイダーが、アーカイブに対する奇怪な想像力を増殖させている。日本はどうだろう。公文書を偽造改竄削除黒塗りする国で、奇怪な想像力が生まれてきてほしい。それはロズニツァやソクーロフと同じように、逆説的に人類の希望となるだろう(日本の希望ではなく)。
ソクーロフは、すでに来るべき時代の脅威に対して、それを先駆けて戯画化するという行為をやってのけた。ビッグデータの空間に生きる人格が単数である必要がないこと(複数のチャーチル)、筆舌に尽くし難いほどの時代遅れ感(チャーチルによる女王への電話!)、彼らがもたらした厄災に比してやりきれないほどの滑稽さ。我々の未来がもつことになる歴史空間を予言する序曲でもあり、我々がそこで滅びないための早すぎるレッスンでもあるようだ。

トッド・フィールド監督『TAR/ター』 (2023)

話題の『TAR/ター』を見た。

gaga.ne.jp

 

監督のトッド・フィールドという人は知らなかった。他の作品も見てみたい。

主人公のリュディア・ターは、ベルリンフィル初の女性指揮者にして、作曲家として世界中で評価され、キャリアに非の打ちどころがない。女性指揮者の活躍の場を増やすことにも尽力し、ロールモデルとしてもまばゆい光を放っている。レズビアンであることを隠さず、パートナー(ニーナ・ホス)との間に里親として引き取った娘もあり、かつ恋愛的にも現役であるみたいで、多くの女性を虜にしている。

しかし、クリスタという若手女性指揮者の自殺をきっかけに歯車が狂い始める。このあたりの展開は、ほとんどサイコスリラーとして古典的という感じだ。

絶大な権力を持っている彼女の不遜で強権的な態度があらわになる。彼女の心に不安が巣食う。それがマエストロを襲う「ノイズ」(チャイム、メトロノーム)として現れてくる。クリスタという女性が「顔のない」存在であり、それが迫害妄想的な不安の表現となっている。中庭に入り、地下室に迷い込む。これは強烈な光を浴び続けてきた彼女が抑圧してきた闇の世界だ。これが本当に不気味な場合と、単に思い過ごしの場合と、その塩梅も良い。

娘をいじめた子供への脅迫。助手で若手指揮者のフランチェスカに対する振る舞い。チェリストを抜擢する時のいきさつ。副指揮者の切り方。どれも単なる悪ではない。それでもボタンの掛け違いのように不和が積み重なり、階段を転げ落ちるように彼女の人生が崩れていく。

 

この映画はテーマ設定やさまざまな映画に対するオマージュなどによって多彩な意匠をこらしつつも、結局のところ王道のサイコスリラーに帰着する。だからこそ160分くらい飽きることなく楽しめたという部分はある。が、いろいろと考えていくうちに、うーーーんと魅力が減じていくところがある。

 

まず、本質的に音楽への洞察を含んでいないように思える。いくらケイト・ブランシェットが指揮者のジェスチャーやピアノをトレーニングして演技に臨んだのだとしても、そしてそれが賞賛すべき努力だったのだとしても(実際、当代最高の女優の一人としての凄みはある)、やはりある種の深みに欠けている。

エンディングに流れるデジタル音楽が結局この映画の音楽なのであって、クラシック音楽との絡み合いはあまり巧みではない。レナード・バーンスタインの言葉もいかにも浅いし、指揮者仲間たちの会話も、対象が「高尚」なだけでいかにも浅瀬でパシャパシャやってるスノッブな印象が強い(ただしこれはこれでリアルなのかもしれない)。

クラシック音楽のシーンは、全体として模倣がうまくいっているかどうかの場面でしかなく、結局粗が目立ってしまう。というか、お手本があり、それをトレースするという構造になっている以上、ほとんどの人間が正解を知らないのだから、いつもどこかで「本当にこんな感じなのかな」という疑念の中で眺めているしかない。なんかケイト様がパワフルな感じで超カッコイイ感じだけど、実際本当にこんな感じなの?みたいな風に。それが映画の弱みになっているように思う。

そもそもリュディア・ターが民族音楽を学んだというのも生かされているだろうか。ターは結局、昔ながらの強権的なマエストロだったことが明らかになるのであって、ベルリンフィル初の女性指揮者というフィクションの設定、民俗学を学びそれを冒頭で流す設定は、とくに新しいものをもたらす合図ではなかったようだ。

この作品が、ウィーラセタクンやアケルマン、あと当然ながらヴィスコンティへのオマージュがあると言われており、それもこの映画が見る人を熱狂的に惹きつける要因になっていると思うが、ターの設定と同じで、表面的な意匠としてなんだか魅力を放っているけど、結局のところあまり中身がないように思える。この映画にウィーラセタクンやアケルマンへのリスペクトはあるのか。別に無くってもいいんだけど。


 あと、ケイト・ブランシェットはさすがの仕事をしていると誰もが思うだろうが、これを褒めてしまっては彼女にとってはイージーなのではないか。むしろ、ドイツ語がそこまで完璧じゃなかったり、ジョギングの時のフォームが微妙にこなれていない感じがするのを見て、何だか完璧すぎなくてホッとした。

キム・セイン監督『同じ下着を着るふたりの女』(2021)

一人称視点か、あるいは異常に接近した三人称の視点で、「女性」の領域に入っていく。

こういうタイプの映画はここ10年ほど良作が非常に多いように思う。思いつくままに、キム・ボラの『はちどり』、ロアン・フォンイー『アメリカから来た少女』、ヘンリカ・クール『ベルリン、60分の恋人』、カンテミール・バラーゴフ『戦争と女の顔』。クリスティアン・ムンジウ『4ヶ月、3週と2日』とか、アマンダ・ケンネル『サーミの血』とかもこの流れに位置付けられるように思う。多くの映画作家を刺激しているし、時代の要請でもあるし、企画が通りやすいというのもあるかもしれない。

キム・セイン監督『同じ下着を着るふたりの女』も、そんな映画の一つとして見た。

movie.foggycinema.com

 

母スギョン、娘イジョン。母は娘に人生を奪われたと感じ、娘は母に人生をねじ曲げられたと感じている。母は娘無しの自由な人生を夢見て、娘は母に受け入れられることを求めている。すでに崩れてしまっていた親子関係が、ある車の事故をきっかけに、さらに大きく動き始める。

 

印象としては、個々の小さな出来事がめっぽう面白く、雄弁な場面を構成する力がある監督だなと感じた。

冒頭の場面。娘が洗面台で下着を洗う横のトイレで排尿する母。その下着を無造作に娘に渡す母。その後、娘の下着についた経血。この最初の場面が多くのことを語っている。この母は、娘を一人の存在として見ていないこと、二人の軋轢が「月経」という表に出てこない、避け難く、生々しい女の関係であること。

新しい恋人の連れ子(中学生)の部屋に入って、性具を見つけてしまうくだり。娘は使用済みコンドームを母のベットに置き、母は娘がトイレに捨てたタバコの吸い殻をベットに置く対称性。

停電のときに、イジョンを呼んで携帯の光で照らさせて、ひとりシャワーを浴びるスギョン。彼女はイジョンを人とすら思っていない。便利な道具として扱う。しかしそうであるがゆえに、観客はスギョンの、決して美しいとは言えないシャワーを浴びる姿を見つめることになる。この皮肉な二重性はとくに素晴らしい。

 

とはいえ、全体の展開、物語の収め方にぎこちなさがある。この二人は解放されたのか。母はハンガリー舞曲をひどく稚拙に吹く、娘は下着を買う。これは解放なのだろうか。映画の終盤で挿入される過去のシーンも唐突で、物語を畳むための言い訳じみて感じる。

また、二人が真に向き合って会話したとき、イジョンが心をさらけだしたとき、スギョンは「おっぱいをあげようか」とごまかした。そのあとの沈黙が、会話の終わりこそが大事なのではないか?そこが編集で即座に切られている。この映画が持っているリアルな時間を損なっている。「愛してる?」という娘の直接的な言葉に対しての母の沈黙を、編集で切ってしまうのに対しても、同じ印象を受ける。

 

それにしても、親子であるがゆえに、家族であるがゆえに、人はどうしても執着してしまう、という物語が量産されているのはなぜなのか。人と人が執着し合う最後の領域であるかのように、親と子の切っても切れない関係というものが繰り返し物語にされ続けている。

だからだめというわけではないが、説明不要の前提とするタイプの映画は苦手だ。そのせいでカサヴェテスの『グロリア』ですら好きじゃないのだ。

コゴナダ監督『アフター・ヤン』(2021)

公開された時に見ようかと思って悩んだ挙句、結局見なかった『アフター・ヤン』を見た。

 

www.after-yang.jp   

というかコゴナダ監督は、『コロンバス』を撮った人だったのか。気づかなかった。

世界の片隅の、日陰の、親密な空間を思わせる淡色と薄明の世界観は、コゴナダに独特のものだ。その洗練ぶりは、テレンス・マリックの『ソング・トゥ・ソング』のような色彩感と寂寥感がある。あの映画、好きな人は少ないような気もするけど、私はなぜか好きだ。

『アフター・ヤン』の場合、この薄明の世界観は、人工的かつ有機的な、ありていにいえばMUJI的な生活空間が近未来の日常として構成される。これはリアルな近未来の生活空間として説得力があってよかった。

コゴナダはユニークなホームページを持っていて、小津やブレッソンウェス・アンダーソンの様式を考察するショートムーヴィーを公開している。

よく見ると、ここにテレンス・マリックのバージョンもある。予感は間違っていなかった。

映画をエステティックに見る人なんだな。結構共感する。

https://kogonada.com


オープニングが秀逸だ。家族がダンスをそれぞれの自宅で行い、その完成度を競い合うリアルタイムのウェブ・コンテクストみたいな感じ。

ここでは家族が、何かチームとして構成されている感じがある。そして主人公たちの家族は白人、黒人の夫婦に中国人の養子、中国系のAIロボットで構成されている。血や法でつながっているというより、意志と温もりでつながっている感じの未来的な家族。この周到な配置。

そしてさまざまな家族がカラフルな背景とともに映されていく。多様だが、どこか規則性を感じさせる。
 

このダンスのときにAIロボットのヤンが故障して、物語はスタートする。この展開もエレガントな導入だ。

いろいろあって故障したヤンの記憶が見られるようになり、それを未来のメガネ的な機会で覗いてみると、彼の視線がそのまま美しいホームムーヴィーになっている。

ここにはメディア論的観点があるように思える。ロボットの視野、映画の画面が、家族のかけがえのない記憶に成り変わる。音楽がつけられ、編集されたクリアな画面。これが私たちの記憶のあり方になっていくのかもしれない。 

 

最初の写真撮影の場面。彼ら彼女らは、ヤンに「見られて」いた。

しかし故障したヤンの記憶を覗き、彼の視線を獲得することで、「見る」側の主体性を取り戻す。それは彼ら彼女らが、ヤンという存在を、そのAIロボットという商品ではなく、愛や記憶を持つ一つの存在として認めるプロセスになっていく。

この過程が美しく、物悲しい。人間の有限性が、物悲しいのと同じように。

 

ところでリリイシュシュのグライドが登場する(!)。

なんかアレンジがちょっと違うぞ…と思ってたら、MITSKIが歌ってるのか。素晴らしい。メロディーになりたい、全体の一部になりたい、という歌が、ヤンの数代にわたる生、そして世界に対する人間の生そのものの歌になる。

ダルデンヌ兄弟監督『トリとロキタ』(2023)

 

Denkikanで『トリとロキタ』を見た。

bitters.co.jp

 

最初の場面。ロキタが質問を受けている。視線は正面から彼女を捉える。のちに明らかになる通り、ここで彼女は嘘をついている。そこに何か考え込まされるものがある。

正面から彼女を問いただす視線は、公的なものが彼女に向けるものだ。そしてそれは決して彼女を救うことも、もちろんその本当の姿を捉えることもできない。ダルデンヌは彼らを正面から捉えることはない。その姿を追うだけだ。そしてその視線だけが、彼らの「出来事」に直面させることができる。

 

イゴールの約束』以来のダルデンヌ・スタイルであることは、この映画を体験した誰もが思うことだろう。ただ個人的な感覚としては、この映画を見て、今まで見てきたダルデンヌ兄弟の作品の見方が少し変わったように思う。

ここには圧倒的な「ドラマ」がある。トリのアドベンチャーとロキタのノワール。もちろんそれはウソっぽいとか作られすぎているとかそういうことではない。移民の人々の実体験が、唖然とするようなドラマチックな出来事に満ちていることがあるように、ドラマのような出来事が現実に起きてしまっていること。ダルデンヌはこの「ドラマ」に身を委ねているように思える。

思えば『イゴールの約束』にしても『少年と自転車』にしても、アクションの連鎖というきわめて伝統的なドラマの構成がある。会話にせよ何にせよ、すべてがその連鎖に奉仕する。考える時間、解釈の余地すらないほどに。

今までダルデンヌ・スタイルは、ドキュメンタリーから発展した手法のように思ってきたが、もう少し複雑に理解する必要があるかもしれない。藤元明緒の映画もそうだ。出来事に直面し、それを追求した果てに、圧倒的なドラマが立ち上がる。これは単に事実に基づいているとか、脚色したとか、そういう問題とは違う。

 

トリの最後の訴えは真に胸を打つ。しかし突きつけられる峻厳な出来事に対して、涙を流す猶予すら与えられない。

マリア・シュペート監督『バッハマン先生の教室』(2021)

ドイツ映画祭 HORIZONTE 2023で、マリア・シュペート監督『バッハマン先生の教室』を見ることができた。東京にいる日程的にこれしか見られないのが残念。

 

www.goethe.de

 

ドイツ映画祭のテーマは〈道を開く女たち〉というだが、『バッハマン先生の教室』のテーマ自体は、直接これに関わるわけではない。この映画祭のなかでは、女性の監督が撮った優れた映画という位置づけになるだろうか。

とくに女性という連想というわけでもないが、映画を見ていて同じドキュメンタリー映画監督の小森はるかの『空に聞く』を思い出した。

映画としてとくにトリッキーな仕掛けを講じるわけではない。「攻めた」テーマ設定や、タブーに過激に踏み込むということもない。移民出身の子どもたちが集まる学校としては、むしろ穏当と言ってもいいかもしれない。同テーマの『バベルの学校』のように、個人にはどうしようもない問題を突きつけるようなことはない。

ただ、おそらく作品となった映画の何十倍、何百倍の時間の映像を撮って、途方も無い時間を積み重ね編集しただろうことが分かる、真摯さ、情愛の細やかさ、粘り強さ、そして苦労を観客に押し付けようとしない軽やかさ。そこがよく似ているような気がした。

定年を迎えるバッハマン先生。最後のシーンに向けて、すべての映像が深い愛情と熟慮をもってそこに配置されている。そんな気がする。

社会問題を提示し、見るものにジレンマを突きつけるような映画ではない。むしろそうした問題を土台として、教育において避けがたい権力関係、つまり教える/教わる関係、評価する/評価される関係のなかで、教師と生徒がどのように心を通わせるのか、それがやはりどれほど素晴らしいことかをしみじみと感じさせる。


話を聞くということ。子どもに対して、一人の人間として扱いながら聞くということ。例えば成績の結果を面と向かって、その理由とともに話すということ。対話するということ。これは日本の学校現場では考えにくい行為だろう。

 

まあしかしバッハマン先生は変わり者ではあるだろうな。昔ハードロッカーだったんだろうな。誰かがどこかで引き受けている重荷。バッハマン先生はそれを引き受けて、世界が捨てたものではないかもしれない、とかろうじて思わせてくれる存在かもしれない。すくなくとも映画はそう主張している。