ジョン・カサヴェテス監督『アメリカの影』(1959)
冒頭のダンスホール。一人黒いたたずまいの男。物憂い顔。ベン・カルーザス。ほとんどルー・リードのような深い哀愁を見せる。エリア・カザン的な、というかジェームズ・ディーン的な物憂いショット。
THE FILM YOU HAVE JUST SEEN WAS AN IMPROVSATION.
最後に現れるこの言葉。この場合の即興とはなんだろう。
商業的な映画の着飾った芝居の嘘に対して、インディペント的本物、むきだしの現実があるという単純な図式ではない。
即興を導入したことによって、解放される動きがある。とくに顔の無限の陰影。この映画は顔とクローズショットがとにかく多い。
ニーチェ、リルケ、ヴァレリーがいった「表面こそ最も深い」というあの逆説を思い出させる。
顔とは何か? そのもっとも人間においてもっとも深い表面である顔とは…。知る限りでは、この問いはカール・ドライヤー『裁かるるジャンル』、タル・ベーラ『ファミリー・ネスト』にもあった。アメリカ的都市、宗教、社会主義と背景がまったく違うにもかかわらず。
人間が会話する。表情がうごく。ためらう。まごつく。逆に顔の表面が静止し沈黙する。
プリミティブなまでにむだを削ぎ落とす。それゆえどこまでもモダン。音楽はミンガスらしい。ショットと音楽。最小単位で構成することを目指したかのようなミニマリズム。『フェイシズ』はこれをもっと先鋭化するだろう。
ルオーの道化の絵が出てくる。場末の哀しみの道化。ドガもある。
これはもちろん高い絵を持っているという記号ではなく(あれは本物なのだろうか?)、兄が出るショーが空虚であること、穏やかな微笑みの背後に悲しみがあることを示している。
傾いた鏡、その背後に映るルオー。このショット!そして三人の男の顔、顔、顔。