My Funny Footnote

映画のことをノートしていきます。

ダニエル・シュミット監督『書かれた顔 4Kレストア版』(1995/2023)

ユーロスペースで『書かれた顔 4Kレストア版』を見ることができた。

 

 kakaretakao.com

 

 

伝統芸能の世界はほぼ無知であるも同然なので、自信をもって言えるほどのことはほとんどない。ただ「映画」として見ただけだ。そして映画として、腰を抜かすほど素晴らしかった。

 

坂東玉三郎は、女形のことを、男の目で見た「女」というものを表現することだと、女を「書く」ことだと、大体こんなことを言っていた(それにしても彼の話しぶりは、なんと明晰で魅力的なんだろう)。

ダニエル・シュミットはこの構築された美を、映画の様式で拮抗させる。映画の力で、坂東玉三郎の美を、伝統芸能の美を再構築する。それゆえこのドキュメンタリーには、普通の意味での真実はどこにもない。すべてが演出されている。そしてそうであるがゆえに、異様に彫琢された「真実」が現れている。

これはオリエンタリズムなのだろう。ただ平成生まれの自分にとっては、これこそが芸能なのだ、芸能が見せる世界とはまさにこれなのだ、という真実を逆立ちさせるほどの強度を持つ作品だった。

 

坂東玉三郎は、演じる自己と観察する自己に分裂しているかのように編集される。

化粧はいつも鏡越し。鏡の向こう側に、別の自己を描き出しているかのようだ。

 

映画のなかで「Twilight Geisha Story」というショートフィルムが始まる。青山真治が助監督を務めているらしい。これが言い尽くせないほど素晴らしい。屋形船で二人の男と芸者が視線と仕草で物語を紡ぎ出す。レトロ。蝶々夫人。嫉妬。悲恋。

そして彼らが視線を遠くに向けると舞踏する大野一雄が現れる。日本の伝統美と、モダンの極北の舞踏の美が、一本の線で引き合わされる。大野一雄。ほとんど人間の皮を被った別の生き物を思わせる「何か」。その「何か」が、なおも人間であろうと、美そのものにしがみつこうとする凄み。不気味であるのに、他ならぬ美であるという衝撃。

 

この映画には、芸能の「化け物」たちが登場する。これは彼女ら彼らが老いているからではない。老いによって、不要なものが剥がれ落ち芸のエッセンスだけが残っていった。その凄みが恐ろしいからだ。