My Funny Footnote

映画のことをノートしていきます。

C.B. Yi 監督『マネーボーイズ』(2021)

新宿シネマートでC.B. Yi 監監督『マネーボーイズ』を見た。

変わった名前だけど、軽く調べた限りではプロフィールはよく分からない。

なんでもミヒャエル・ハネケに「師事」したらしい。ただ彼が何らかの学校で映画を教えているとインタビューで見たことがある気がするから、その学校で指導を受けた、ということかもしれない。

 

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ハネケっぽさをあえて見つけるとすれば、限定的なカメラの視角かもしれない。タテとヨコ。しばしば横顔しか見えない。正面からの顔をほとんど取らない。観察者であることを意識させるような視点。画面から外れて見えていない部分を想像させ、同時に安易な感情移入を許さない無機的、無感情な視覚。俳優に容易に演技をさせない。

長回しで撮る会話はエドワード・ヤン的でもあるかもしれない。

 

マネーボーイズ。これは男娼として金を稼ぐ男たちのことだろう。

ただそうであると同時に、家族や故郷の輪からは外れて「冥幣」(日本の線香のように、死者に手向けて燃やすお金)を燃やさざるをえない男たちのことでもあるようだ。

美しき男たち。その美しい肉体を男性に対して「売る」男たちは、世間の本能的な感性によって見下される(警察の囮捜査のシーンは、胸が痛むほどだ)。そこには、単に男がかっこいいということとは違う美しさを持つ同性への、捻れた劣等感も見え隠れする。監督自身も体験したのかもしれないそうした精神的な力学が、緻密に強力に作用している。

 

フェイ(クー・チェンドン)が自分を追ってきた同郷の弟分(ロンだったっけ?)を、住み込みの料理屋のカビ臭い部屋に住まわせ、喧嘩に発展する場面。

「体を売る人間は見下される」「誰だって自分を売ってる」「警察の前で言ってやれ」

本来なら恋人同士の「痴話喧嘩」だったはずの会話が、彼ら彼女らの置かれた状況のせいで、社会の重みを背負った、人生を賭けた言葉のやり取りになる。グザヴィエ・ドランとかセリーヌ・シアマとか、クィア映画(と言っていいのだろうか)に心を動かされるとき、必ずこのような会話があるように思う。C.B. Yi の映画にもそれがあった。

この喧嘩のあと、出ていったロンをフェイが追いかけて、二人は並んで歩く。これは二人が男娼として、かつ肉体関係を持つパートナーとして生活していくことを暗示する企みに満ちた場面だ。

その直後、夜道の街灯の下、ストリートダンサーのショットが挿入される。

道路脇の街頭の明かりの下、即席の舞台のようなものを作り、体をゆっくり、しかし最高度の緊張度でしなやかに変形させていく女性のダンサー。それを静かに見つめる人々。ある種のシュールさが、彼らの置かれた現実そのものだ、彼らはこのダンサーなのかもしれない、という生々しさが迫真的だ。

 

最後の印象的な場面。これは忘れられないものになりそうだ。失った日々から観客に(あるいは監督自身に?)救いを与えるようなクラブでのフェイのダンス。

救いのない悲しみを、回想によって何とか慰めようとする、あのいたわりに満ちた追憶を眺めながら、なぜかインファナル・アフェアシリーズのトニー・レオンを思い出していた。もちろん『ブエノスアイレス』のトニー・レオンの連想もあっただろう。

あのしみじみとした悲しみ。

ダニエル・シュミット監督『書かれた顔 4Kレストア版』(1995/2023)

ユーロスペースで『書かれた顔 4Kレストア版』を見ることができた。

 

 kakaretakao.com

 

 

伝統芸能の世界はほぼ無知であるも同然なので、自信をもって言えるほどのことはほとんどない。ただ「映画」として見ただけだ。そして映画として、腰を抜かすほど素晴らしかった。

 

坂東玉三郎は、女形のことを、男の目で見た「女」というものを表現することだと、女を「書く」ことだと、大体こんなことを言っていた(それにしても彼の話しぶりは、なんと明晰で魅力的なんだろう)。

ダニエル・シュミットはこの構築された美を、映画の様式で拮抗させる。映画の力で、坂東玉三郎の美を、伝統芸能の美を再構築する。それゆえこのドキュメンタリーには、普通の意味での真実はどこにもない。すべてが演出されている。そしてそうであるがゆえに、異様に彫琢された「真実」が現れている。

これはオリエンタリズムなのだろう。ただ平成生まれの自分にとっては、これこそが芸能なのだ、芸能が見せる世界とはまさにこれなのだ、という真実を逆立ちさせるほどの強度を持つ作品だった。

 

坂東玉三郎は、演じる自己と観察する自己に分裂しているかのように編集される。

化粧はいつも鏡越し。鏡の向こう側に、別の自己を描き出しているかのようだ。

 

映画のなかで「Twilight Geisha Story」というショートフィルムが始まる。青山真治が助監督を務めているらしい。これが言い尽くせないほど素晴らしい。屋形船で二人の男と芸者が視線と仕草で物語を紡ぎ出す。レトロ。蝶々夫人。嫉妬。悲恋。

そして彼らが視線を遠くに向けると舞踏する大野一雄が現れる。日本の伝統美と、モダンの極北の舞踏の美が、一本の線で引き合わされる。大野一雄。ほとんど人間の皮を被った別の生き物を思わせる「何か」。その「何か」が、なおも人間であろうと、美そのものにしがみつこうとする凄み。不気味であるのに、他ならぬ美であるという衝撃。

 

この映画には、芸能の「化け物」たちが登場する。これは彼女ら彼らが老いているからではない。老いによって、不要なものが剥がれ落ち芸のエッセンスだけが残っていった。その凄みが恐ろしいからだ。

ミシェル・フランコ監督『ニューオーダー』(2020)

見たいと思いつつ映画館で見られなかった『ニューオーダー』をU-NEXTで見た。

 

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暴力はダメだと人は言う。それは分かっている。でもそのあまりに教科書な言い方に、何となく釈然としないものを覚えることもある。それって現実が見えてないんじゃないの?とか。

暴力がまかり通るということがどういうことか、この映画は明らかにしてくれる。

そして暴力はダメだ、とはこういうことか、暴力がまかり通る世界はこんなにも悲惨なのか、と、この映画が与えるひどい不快感とともに黙り込むことになる。

 

予告のトレイラーを見ていて、ある瞬間を境に世界が一変する単純な展開を予想していたが、そんなことはなかった。富裕層の結婚式のパーティ。その外側では暴動が起きている。ただそれを、彼ら特有の鈍感さで無視しているだけだ。

描かれるのはパーティという祝祭。これは「日常」においては「非日常」として祝われるはずだが、外部で起きている暴動という本物の「非日常」においては、単なる日常の延長に過ぎない。外部ではすでに世界が崩壊している日常の、淡々とした描写。(ちょっと角度は違うが、ハネケの『タイム・オブ・ザ・ウルフ』とか、ラース・フォン・トリアーの『メランコリア』を思い出した)

 

監督のフランコを突き動かしているのは、このグロテスクな格差社会を正さねば、取り返しのつかないことが起きるという切迫した危機感だろう。日本ではそれが新しい資本主義の段階であって、これから解決していこうという構えだが、むしろ現在発生しているのは、プリミティブな格差社会であって、暴力的な局面への脅威が迫っていると、この映画は主張する。

 

冒頭の印象的な絵は、ロドリゲス・グラハムという画家のものだということが最後に明らかにされる。

まず最初に見た時は、アカデミズム崩壊後の「平等主義」的な絵画が、高額な商品として富裕層の家に飾られるという皮肉かな、などと思っていた。でもこの絵は、もっと別の意味を持っていたのだ。

この絵は「死者だけが戦争の終わりを見た」というタイトルを持つという。映画に仕掛けられたメッセージ。富裕層は時限爆弾を知らぬまま自分の家にしかけていたようなものだ。タイトルによって新しい意味を帯びてくるという現代的な抽象画の仕掛けを巧みに使っている。

オリヴィエ・アサヤス監督『イルマ・ヴェップ』(1996)

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「映画についての映画」が好きだ。

「映画がうまくいかないことについての映画」は、ほとんどもう無条件に好きだ。

フェリーニの『8 1/2』はもちろん。ウカマウ集団の『鳥の歌』も。『テリー・ギリアムドン・キホーテ』も。(なんか変な例しか出てこない)

 

そして『イルマ・ヴェップ』は、この「映画がうまくいかないことについての映画」のど真ん中だ。なのでほとんどもう無条件に好きだ。

実在のサイレント映画の『レ・ヴァンピール 吸血ギャング団』(ルイ・フイヤード監督)をリメイクする映画の撮影がうまくいかない。

撮影現場の活気ある動きと、サイレント映画の動きがあからさまなほど対照的だ。前者は、さまざまな人が行き交うなかを、クローズアップの視点が大胆に移動する。後者は、ジェスチャー中心の誇張された動き。その中間を、イルマ・ヴェップを模倣するマギー・チャンがしなやかに歩む。(しかし、もっともイルマ・ヴェップっぽい動きをするのがスタントマンというのも、アイロニカルで良い)

ちなみに、途中のパーティで出てくる活動家の「シネマ・ミリタン、政治映画」の映像も、抜群の切れ味で挿入される。「映画は魔法ではない。科学から生まれ、ある意志に奉仕する技術である。それは解放を求める労働者の意志である」

 

マギー・チャンの魅力は言わずもがな。二つ、ゾクゾクするシーンがある。

序盤で彼女が例のタイトなゴムの衣装を試しているとき、衣装係ともう一人のスタッフが話す背後で、すっと猫が座るようなポーズをとる。彼女がイルマ・ヴェップにすっと入り込む瞬間。もう一つ、深夜に彼女を呼び足した監督が騒ぎを起こして、彼女が「窓から出た方が早いわ!」といって窓と柵を飛び越えて往来へ出てタクシーへ乗る。そのしなやかな動き。その直後、イルマ・ヴェップの夜が始まる…。

仕事を投げ出したかに見えた監督が残した最後の「映画」。あれはなんなのだろう? 

完成した映画ということなのか。それともずだずだに映画を破壊した残骸ということなのか。いずれにせよ、信じられない衝撃力をもった映像。サイレント映画でも、現場のリアリズムでもなく。

作中、いろんな映画に対するアイロニーが散りばめられていた。バットマンを貶し、アメリカ映画をフランス的芸術映画と対比する。その「芸術映画」の監督にコーラを片手に深そうで浅いことを言わせ、落ち目の別の芸術監督にマギー・チャンを貶めさせて全観客の憎悪を掻き立てる。監督の妻にくだらないスティーブン・セガール映画と言わせ、しかもイルマ・ヴェップの格好で泥棒の真似事をするマギーが背後にいる!

そうしたアイロニーをぶった斬るまったく新しい次元の映像。小田香の感じすらする。

物語としてどんな整合性があるのか分からないが、映像と音の強度だけで落とし前をつけてしまった。

 

話題のドラマは第2話まで来た。2話目はひくほど面白くなかった…。

チウ・ション監督『郊外の鳥たち』(2023)

 

イメージフォーラムで『郊外の鳥たち』を見た。

www.reallylikefilms.com

 

監督のチウ・ションは、中国映画の第8世代に属するらしい。

胡波(フー・ボー)、畢贛(ビー・ガン)、顧曉剛(グー・シャオガン)を見てきたが、不思議なことに、いつもそこにはタル・ベーラの影があったように思う。とりわけに、背後にある途方も無い巨大な世界、終末を迎えようとする世界をただ黙って捉えようとする、あの「長回し」。

チウ・ションの映画にはそれが希薄だった。彼の映画の「目」は、冒頭の土地測量のためのレンズ越しの視界が示すように、せわしない観察の目であり、何かを発見しようとするズーム・アップのようだ。(しかしあからさまにホン・サンスすぎる)

とはいえ、バランスを欠くほどに芸術性を完遂してしまう度量の大きさは、ビー・ガンと共通する香りを感じる。それは中国の文化的爛熟なのか、政治的不自由の結果なのか、そのあたりはなんとも言えないが。

ビー・ガンは『ロングデイズ・ジャーニー』でパウル・ツェランの「罌粟と記憶」を念頭に置いていたらしい。チウ・ションの場合はカフカの『城』。しかも「土地の測量」という点を共通させるあたりに、文学的水準の高さを感じる。

ヨーロッパの周縁で(偶然にもともにドイツ語で)、のちに歴史を変える言葉を投壜した者たちを、独特に受け取って作品化する中国の映画作家たち。

 

カフカの城の主人公は、測量士K。客観的な尺度で世界を測量しようとするKは、城の街という根本から合理性の通用しない世界では、測量すら始められないまま続きが途絶えてしまう。

この映画の主人公は、実際に土地を測量する。しかし地盤そのものが沈下している。寄ってたつべき世界が歪み、沈んでいく。冒頭で、彼らが測量しているとき、すでに世界は歪み、夢と現実が混じり合っているのでは無いか。彼らが発見する鉄塔に登る子どもは、すでに夢の世界から現れていたのではないか。レンズはより詳細な観察を可能にするのではなく、過去や未来、亡霊や夢を見せてしまう。

 

そういえば、重要な秘密のように登場するクイズが出てくる。あの答えはなんだろう? 明らかにされないのだから解く必要もないかもしれない。

でも思いついたから書いておこう。水!WATER! 四文字だっていうなら中国語のピン音でSHUI!(一緒に見た妻は、TIMEだと主張している。彼女が正しいかも…)

 

この映画にはタイトルが二度現れる。一度目は「郊外の鳥たち」の長いバージョン、二度目が短いバージョン。あるいはエンディング。そういうことだろうか。似たようなやり方は、ビー・ガンの『ロングデイズ・ジャーニー』にもあった(こっちの方が鮮やかで強烈だと思うが)。

 

子どもの世界と大人の世界。過去と現在と未来、夢と現実。これが入り混じり、浸透し合い、作用し合う。お互いがお互いを反映する。

この辺りのやり方は、ホドロフスキーと似て、あえてやろうとしてやっているようなワザとらしさを感じて、心を深く動かされたわけではないが、監督のインタビューを読んだり、いろいろ反芻したりしているうちに、じわじわと良い映画だったのでは…と思えてきた。

新しい作品もどんどん日本で公開してほしい。

ジョナ・ヒル監督『Mid90s ミッドナインティーズ』(2018)

www.transformer.co.jp

 

カミング・オブ・エイジもので、いざというときに真面目なことをちゃんと言える友人、正しい行動を取れる友人にずっと憧れがある。

一番最初の記憶では、『スタンド・バイ・ミー』のリヴァー・フェニックス。最近だと、エリザ・ヒットマン監督『17歳の瞳に映る世界』にもそんな友人がいた。

この映画ではレイがそうだ。彼は主人公スティーヴに、自分と友人たちの境遇を語る。憧れの人物たちの現実。崩壊しつつあるアドレセンス。レイは「ファックシット」との友情をあきらめつつある。だから後味は苦い。

未知の世界に飛び込んだ少年の期待と不安、90年代の輝きというのも魅力的だけど。最近のアメリカのカミング・オブ・エイジ・ムーヴィーには、大人になりつつあるからこそ、もう輝かしい未来が存在しないことが分かってしまうという、そこはかとない閉塞感を感じることがある。

 

最後の場面。フォース・グレイドがいつもカメラを回しているという設定を活かす。その映像が天才的だった。魚眼レンズの映像。一人称の視点と、躍動する世界。映像に限っては、パーフェクトな黄金時代。フォース・グレイドは、自分の映画の構想を、Super Baby, Stong Babyと言っていた。意味不明で笑えるが、それを実現してしまったのかもしれない。

でもやっぱりこの映像は、プロが作ったウェルメイドさを持っている。なんでこんな巧みに編集させたのだろう。なんで数分しかないんだろう。彼らの黄金時代の短さなのだろうか。やっぱり後味は苦い。


二つの印象的な場所がある。

狭く長い廊下。冒頭の兄とのケンカ。二人の関係がやがて変わって、この廊下は別の意味を持つだろうことを予感させる。

もう一つは道路の中央分離帯。果てからスケボーでやってくる。行き交う車の間を。自由さと危うさ。スティーブは最初、夢中で喜びと恐怖でぐちゃぐちゃになりながら追っていく。次はレイと二人で。新しい関係が芽生えている。

あと音楽について。2000年代のアメリカのインディーズは青春の音楽だったけど、90年代のはあまり聞かなかったんだな。90年代の音楽はリアルタイムではないけどストーン・ローゼズとかオアシスとかを聞いてた。

ジョン・カサヴェテス監督『アメリカの影』(1959)

 

冒頭のダンスホール。一人黒いたたずまいの男。物憂い顔。ベン・カルーザス。ほとんどルー・リードのような深い哀愁を見せる。エリア・カザン的な、というかジェームズ・ディーン的な物憂いショット。

THE FILM YOU HAVE JUST SEEN WAS AN IMPROVSATION.

最後に現れるこの言葉。この場合の即興とはなんだろう。

商業的な映画の着飾った芝居の嘘に対して、インディペント的本物、むきだしの現実があるという単純な図式ではない。

即興を導入したことによって、解放される動きがある。とくに顔の無限の陰影。この映画は顔とクローズショットがとにかく多い。

ニーチェリルケヴァレリーがいった「表面こそ最も深い」というあの逆説を思い出させる。

顔とは何か? そのもっとも人間においてもっとも深い表面である顔とは…。知る限りでは、この問いはカール・ドライヤー『裁かるるジャンル』、タル・ベーラ『ファミリー・ネスト』にもあった。アメリカ的都市、宗教、社会主義と背景がまったく違うにもかかわらず。

人間が会話する。表情がうごく。ためらう。まごつく。逆に顔の表面が静止し沈黙する。

プリミティブなまでにむだを削ぎ落とす。それゆえどこまでもモダン。音楽はミンガスらしい。ショットと音楽。最小単位で構成することを目指したかのようなミニマリズム。『フェイシズ』はこれをもっと先鋭化するだろう。


ルオーの道化の絵が出てくる。場末の哀しみの道化。ドガもある。

これはもちろん高い絵を持っているという記号ではなく(あれは本物なのだろうか?)、兄が出るショーが空虚であること、穏やかな微笑みの背後に悲しみがあることを示している。

傾いた鏡、その背後に映るルオー。このショット!そして三人の男の顔、顔、顔。